霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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西行法師 その如月の望月の頃

   

満月
願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃

明日、2月15日は釈迦の入滅の日(命日)と言われています。
冒頭の和歌は西行法師の歌です。西行法師は釈迦の入滅の日に死にたいものだと願い、その十数年後の2月16日、釈迦入滅の日の翌日に亡くなっています。その予言めいた歌と最期で話題になることが多い歌です。

如月(きさらぎ)は2月、望月は満月のことで、旧暦の2月15日となります。花は桜のことで、2月に桜というと季節違いのようです。しかし、ここで詠まれている2月15日は旧暦ですので、新暦になおすと3月31日あたりになるそうです。そうですね、桜の季節になりますね。

西行法師の和歌は百人一首にも取られています。

嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな

こちらは相聞歌(恋愛歌)です。「月が嘆けと私を物思いにさせているいるのだろうか?いや、本当は恋の悩みなのに月のせいにしている私の涙じゃないか」という切ない歌です。西行法師には恋愛のうたが多いようです。

西行法師は、もともと裕福な武家の出身で、鳥羽院の北面武士もなったことがあるエリートだったとか。文武両道に秀でていて、しかも美貌の持ち主だったというから羨ましい限りです。その西行法師が20代で突然出家して、和歌を詠みながらおもむくままに旅をして生涯を過ごしたというのですから・・・何があったのでしょうかね。

そこには何か挫折があったのかもしれませんね。失恋という説もありますが、どうなのでしょうか。西行法師が活躍していたのは1100年代です。滅して今もなお、その和歌が愛されているのは秀歌ということはもちろんですが、彼の生き様に共感がもって語られているからでしょう。

出家した時、西行法師には妻子がいたそうです。地位も妻子もすてて花と月を愛した歌人。私も、もう少し身軽になった方が良さそうな気もしますが・・・そんな気がするだけです。一度手にすると鉛筆一本捨てられない。

 - 短歌

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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