霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

短歌

【転載】取り込む俳句と吐き出す短歌

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 テレビ番組で俳句の毒舌批評が人気を博しているようだ。有名な方々の俳句に容赦なく赤を入れていく姿は時に爽快である。その毒舌俳句先生こと夏井さんと同じ師をもつ方から、時折吟行に誘われる。俳句の方々は吟行が好きである。私としては即詠が苦手なのだが、吟行先での食事が楽しみでひょこひょこと後ろからついていく。もちろん吟行についていって食事だけという訳にはいかず、四苦八苦の末に下手な俳句を披露するはめになる。

 俳句には季語がある。とくに私を誘ってくれる方々は季語に厳しい。立冬を1日でも過ぎたら秋の季語は不可である。鹿児島の紅葉は遅いので、紅葉を愛でる吟行で秋の季語である「紅葉」を使えないのだ。そんな不自由な季語であるが、その分、俳句の方々は自然の表情、四季の移ろいに敏感である。花鳥風月を捉えて上手に17音にのせる。

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

ご存知、正岡子規の名句である。茶屋で柿を食べると法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じたという句意だ。時間は夕暮れかと思う。柿の朱色とあいまって暖色の古都、古刹の景が鮮明に顕ちあがってくる。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければ たたみの上にとどかざりけり

こちらも子規である。子規の晩年の歌で、病床から花瓶に活けられた藤の花を見上げている。そもそも藤の花を畳に届くように活ける人はいないであろう。そこにあえて「とどかざりけり」と詠むのは無念さであろう。己が生の短さを藤の花に託している。心情の吐露である。

 さて、ここで「取り込む俳句と吐き出す短歌」という話になる。外に出て自然と語らいながら詠む俳句と、家の中でじっくりと内面を見つめて詠む短歌である。そう考えると、たった14文字の違いだが、短歌はその14文字分だけ散文的なのかもしれない。

 俳句の吟行に参加していると、俳句に言い足らない歯がゆさを感じることがる。その歯がゆさは、私が短歌の世界にいるからであろう。逆に俳句の世界からみると、短歌は重苦しい冗長さを感じるのかもしれない。外の世界を捉えて17文字の形に取り込んでしまう俳句。内の世界を見詰めて31の形にして外に出していく短歌。そして、おのおの外と内とを仲介するのが言葉、文字ということであろうか。

 ある方から短歌と俳句は世界が違うから、両方するといけなと言われたことがる。しかし、回りをみていると両方している人も結構いるようだ。私は短歌の世界の住人で、時折、俳句の世界を覗き見るような感じだが、その違いは文字数の違い以上のものを感じる。「知的抒情」、「知的」は残念ながら持ち合わせがないが、「抒情」の方は大切にしていきたい。

短歌誌「にしき江(時点)」より転載

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