霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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塩浸温泉 坂本竜馬ゆかりの温泉

   

塩浸温泉隼人の方から霧島の山に向かって新川沿いに進んでいくと多くの温泉が点在しています。
そして、突然に川沿いに坂本竜馬の銅像があらわれます。塩浸温泉(しおひたしおんせん)です。

以前は町営の温泉で、古い建物でしたが近くの人たちの憩いの場となっていました。湯船が長年のかけ流しで茶色く変色しているような鄙びた趣の温泉で時々訪れていました。

龍馬のピストル

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放送されて以降、坂本龍馬ゆかりの温泉として整備され、今では龍馬公園になっています。温泉もその時整備されて綺麗になっています。龍馬ゆかりの品々の展示もあり多くの人が訪れています。整備されてから何度か訪れていますが、新しくなった温泉にはまだ入っていません。温泉前の足湯には浸かって、温泉卵は頂きましたが・・・。こんどはゆっくりと温泉セットをもって訪ねたいですね。

新川渓谷温泉郷でも上流にある「塩浸温泉(しおひたしおんせん)」は古い温泉で1800年頃に発見されたとあります。

川の辺には竜馬湯治の湯船といわれている湯船があります。
今は川の辺に下りる路も無く入湯することは出来そうにありません。
もっとも行けたとしても国道が目の前にあるので入湯するには勇気がいるでしょうけど・・・。

龍馬の湯

この温泉は古くから切り傷などに効くといわれている名湯です。坂本竜馬が傷を癒した名湯を堪能してください。宿泊施設はなく日帰り湯です。

おすすめは秋です。この新川渓谷沿いはモミジが沢山植えられており、11月下旬から12月は紅葉の見ごろです。この塩浸温泉も龍馬が散歩したと言われる裏手の山に、大きなモミジの木があり見事です。

竜馬たちが西郷隆盛の誘いで鹿児島に向かった旅は、わが国最初の新婚旅行と言われているそうです。
毎年2月には二人の足跡を訪ねる「竜馬ハネムーンウォーク大会」も催されます。

おまけ・・・坂本竜馬のお話

龍馬とお龍(おりょう)が鹿児島を訪れたのは幕末押し迫る慶応2年(1866年)です。
明治維新が1867年ですので、まさに動乱の時期だったのでしょう。
3月9日に寺田屋にて襲撃された竜馬は28日にお龍と結婚します。
西郷、小松の薦めで傷の湯治のために鹿児島に向け出立したのは4月14日です。
24日には鹿児島に着きこれから長崎に向けて出立する7月13日まで塩浸温泉を中心に鹿児島に逗留します。
これが日本で初めてのハネムーンと言われる旅となります。
逗留中に高千穂峰に登り逆矛を抜いてみたという手紙が残っています。あの逆矛はそのころから有ったのですね。
この旅が二人にとって最良の時間で、つかの間の幸せとなったのでしょう。
翌年の10月には体制奉還があり、11月15日に暗殺されます。竜馬33歳、お龍28歳の事です。

塩浸温泉 アクセスマップ

鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3606番地

31°50’04.4″N 130°44’39.3″E

 

 - 温泉散策

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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