霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

*

巨大な徐福像が見つめているのは

      2015/02/01

徐福像徐福伝説をご存知でしょうか。
以前、大きな徐福像が遥か大陸の方を向いて立っていたのを見たことがあります。
それは、それは、素晴らしく大きな徐福像でした。
場所は霊峰冠岳の麓です。
冠岳登山のおりに突然、巨大な徐福像が現れてビックリしたのを覚えています。

冠嶽はいちき串木野市にある山で、昔から霊山として崇められいました。いまでも神社や仙人岩、護摩岩などが当時の面影を残しています。
その山麓の徐福展望公園に高さ6メートルの巨大な徐福像があります。他にも徐福伝説にちなんだ冠嶽園という中国庭園もありトレッキング、歴史散策と楽しめます。

徐福伝説は古代史に興味のある方はご存知でしょう。
その伝説とは、秦の始皇帝に不老不死の仙薬を求め帰るように命を受けた徐福が、3000人の集団を引き連れて、東方の桃源郷日本へ旅立ったと言うものです。
さて、徐福らは無事に日本にたどり着いたのでしょうか。

件の徐福像は徐福一行が冠岳にたどり着いたという伝説に基づいています。
徐福一行は鹿児島の西海岸、串木野の照島海岸に上陸し、冠岳にたどり着いたというのです。
徐福渡来の伝説は鹿児島意外にも日本各地にあるようですね。

さて、その徐福が日本に向かったのは紀元前219年のことらしいのです。
日本では縄文後期から弥生時代の頃でしょうか。
司馬遷の史記に書いてあるそうです。
史記が書かれたのは紀元前100年の頃、一方、わが国の古事記、日本書紀が編纂されたのが720年頃です。
日本では、まだまだ、神話の世界の頃の話ですね。
もし、たどり着いていたのなら、古事記、日本書紀のネタくらいになっているかもしれませんね。

天孫降臨のニニギノミコトから三代を日向王朝というそうです。
その後、神武天皇の東征があり大和王朝の成立となります。
その日向王朝のさまざまな神話、伝説、伝承と徐福伝説を重ね合わせるとロマンが膨らみませんか。

中国でも徐福の存在はさまざまな説があるようです。
彼が古事記、日本書紀に登場するわけでもありませんが、もう一度、見に行きたくなりました。
冠岳の大きな徐福の像。

冠嶽展望公園 アクセスマップ

31°44’39.9″N 130°20’02.8″E

 - 歴史散策

adsense

adsense

最近のコメント

このブログでは記事ごとのコメントは設けておりません。
ご意見、ご感想などは、ゲストブックに書き込んでくださると有り難いです。


  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

  •   関連記事