霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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韓国岳 樹氷を愛でに(H20.12)

      2015/01/11

樹氷「霧島が雪」、そんな情報が舞い込んできました。
久々に山行計画は、その情報で霧島に決まりました。
家から眺める霧島は雪のようでは有りませんが行って見ましょう。

霧島神宮に集合です。
フォトハンターさんは、始めて一緒になりますが、2日前から霧島に来ているとか。
この寒い中に、車中泊なのだそうです。
さて、目指すはえびの高原、韓国岳登山口です。

登山口につくと全山白くなった韓国岳がありました。
雪は積もってので、雪化粧か霧氷かわかりません。
硫黄山までくると韓国岳の火口壁のくぼんだあたりから太陽が上りはじめました。
そらはまだ晴れきっておらず、太陽が昼月のように白く浮かんでいます。
幻想的な風景です。
ハンターさんはすかさずカメラのファインダーを覗きこみます。

入り口から樹氷のトンネルを抜けて登っていきます。
登山道には雪がなく、ただ木々だけが白くなっています。
1合目、2合目と写真をとりながら登っていきます。
5合目を過ぎたあたりから振り向くと雲海です。
かすかに桜島が雲の下に薄く浮かび上がっています。
7合目あたりから陽がさすことが多くなりました。
青空を背に樹氷が綺麗です。

頂上は相変わらず沢山の人がいました。
なんと2時間半もかけての韓国岳頂上です。
いつもの倍以上の時間です。
ここで食事をすまして・・・北斜面にむかってあるき始めます。
今日は火口を一周して反対側からの下山となりました。

暫く進むと縦走路が望めるようになりました。
みなれた風景です。
すこし噴煙をあげている新燃岳を背にして樹氷が煌いています。
木々についた氷がとけかかり透明になっています。
いつのまにか高くなった太陽に照らされてガラス細工のようです。

山頂のちょうど反対側のところあたりから火口におりて見ました。
結構、急な斜面ですが此処からしか降りられないとか。
火口では鹿が数匹走り回っていました。
火口から見上げると半分は白く、半分は茶色の火口壁です。
その交わったところあたりに山頂が見えます。
もう、人の姿はみえません。

火口壁の窪んだところを目指して上りはじめます。
降りたところとは反対側になります。
かなりの勾配ですが、これで行程をすこし短くできそうです。
火口をぬけると藪がまっていました。
ヤブコギです。
凍った笹を掻き分けて進んでいきます。
ひたすら下をめざして、右におりていくと硫黄山にぬけました。
振り返ると北斜面の勇壮なすがたが覆いかぶさってきます。

樹氷をめでるには最高の一日でした。
ここ数日の寒波と雨が霧島の山々を白く化粧して、今日の陽射しが青空と煌きを加えてくれました。
初めての火口とあわせて忘れられない山行となりました。

韓国岳・樹氷 登山記録

登山者 私、ハンターさん、Oさん、Aさん

8:30 韓国岳登山口(登山開始)
9:50 5合目
11:15 山頂(昼食)
13:10 火口降り口
13:30 火口
14:20 火口上部
15:15 韓国岳登山口(下山)

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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