霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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豊玉姫陵 田圃の中に石の囲いが・・・

      2015/07/02

豊玉姫陵

南九州市知覧町には豊玉姫(とよたまひめ)と玉依姫(たまよりひめ)の伝説が残っています。

豊玉姫は山幸彦こと日子穂穂手見命(ひほほでのみこと)の奥さんですね。
玉依姫はその子供の鵜草葺不合命(うがやふきあわずのみこと)の奥さんです。
ちょっと複雑ですね。玉依姫の子供が神倭伊波礼比古命(かむいいわれびこのみこと)、つまり神武天皇です。

その豊玉姫の御陵と伝えられている場所が知覧にあります。

鹿児島市から知覧町の方に県道22号線を走っていくと、左手の田んぼのなかにぽつんと鳥居があります。それが豊玉姫の御陵です。
田んぼの真ん中に石の囲いがあって、真ん中に石がぽつんと置かれています。そこが御陵ということです。その前には鳥居がありますが、それだけです。
豊玉姫の旦那様、日子穂穂手見命の御陵は溝辺町の高屋山陵で、隼人町の鹿児島神宮です。随分と離れた所にあって、随分と質素な御陵です。

鳥居の横に案内板があります。案内板にはこの地が豊玉姫の御陵と伝えられていること。豊玉姫と玉依姫の伝承、祀ってある神社などが説明されています。

豊玉姫神社

豊玉姫を祀っているのが豊玉姫神社で、同じく知覧にあります。こちらは水からくりで有名です。毎年7月には、年それぞれの趣向をこらしたからくり人形をみることができます。
私が行ったときは、前年に上演したらしいからくり人形が神社内に展示されていました。機会があったら、実際に動いているところを見てみたいものです。

豊玉姫神社の水からくり

山幸彦が無くした釣り針を捜しに綿津見神(わたつみ)の宮殿へ行ったときに、その娘の豊玉姫と知り合って結婚したのだそうです。その出会いの場となった井戸は開聞町にあります。「玉の井」という井戸です。また開聞町の枚聞神社(ひらききじんじゃ)は、かって和多都美神社と言われていたそうです。

如何でしょうか。開聞町に綿津見の言い伝えがあり、知覧町に綿津見神の娘達の言い伝えがある。もしかしたら、南薩摩は綿津見神の里だったのかも知れませんね。

 - 歴史散策

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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