霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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高千穂峰 東神社コース(H20.10)

      2015/01/11

高千穂峰の逆鉾霧島連山で一番高いのは韓国岳です。
標高1,700m。
しかし、霧島連山の盟主と言えば、高千穂峰と思うのです。
標高こそ1,574mで韓国岳に最高峰の座をゆずりますが、大きな火口を擁き天を突くようにそびえる雄々しい姿は霧島連山盟主の趣です。
その、天孫降臨の言い伝えを残す山に久々に登りました。
今回のコースは宮崎県側の霧島東神社からのコースです。
霧島連山の数あるコースの中でも、最もハードなコースでしょう。
往復するのもつまらないので、下りは高千穂河原へのレギュラーコースを降りることにします。
高千穂河原に集合、車を1台おいて御池の方に移動します。
今回は3人のこじんまりとしたメンバーです。

神社境内に登山口があるのも珍しいですね。
いつものように東神社におまいりしてから上り始めます。
しばらくは杉の林の中を抜けて行きます。

「あっ」、前の方を歩いていた1人が立ち止まります。
「なにっ!」、「ひるっ!」。
良く見ると茶色の5cm位の山蛭が落ち葉の上を私に向かって這っていました。
1匹、2匹・・・そこそこいそうです。
そういえば、上り口にヤマヒル注意と書いてありました。

このコースは流石に登る人も少ないようです。
会ったのは福岡からきたという団体さん。
そして・・・昨日から帰っていないというおじいちゃんを探している人たち。
そういえば、先ほどからヘリが上空を回っています。
御池の方から登ってかえっていないということです。
怪我などしていないと良いのですが。

そろそろお腹がへってきたなと時計を見ると12時。
ちょうど二子岩についたので、ここで食事にします。
登りはじめが9時30分ですから2時間半です。

このあたりから薄野が広がっています。
薄野の中を一筋の伸びる登山道、その先には覆被さるように山頂が迫っています。
そしてその上には秋の青空と白い雲。
素晴らしい光景です。

二子岩を過ぎて薄野を登ると御池からの合流点、それから直ぐに皇子原からの合流点。
この辺りにくるとすれ違う人も多くなります。
そういえば此処には鳥居があったはずとみると、横木がなくなり2本の柱だけになった鳥居が残っていました。

今回はセンブリを愛でる山行でもあります。
小さい白い花をつけたセンブリが登山道の脇にひっそりと咲いています。
ちょっと葉っぱを口に入れて見ました。
苦い!、一番小さい葉っぱ1枚ですが、その名に偽りは無いようです。

ダマシを越えると山頂が見えてきました。
頂上の日の丸が大きく見えます。
ようやく山頂です、1時40分、4時間ほどでした。
やはり人気の山で、頂上には沢山の人がいます。
お鉢の方をみると登る人、降りる人が蟻のように列をつくっています。

下りはお鉢をまわってガレ場を下っていきます。
いつものことですが、歩きにくく閉口します。
なんども尻餅をつきながらなんとか高千穂河原まで。

高千穂峰 東神社ルート 登山記録

平成20年10月12日(日曜9
参加者 私とダブルAさんの3人

9:30 東神社 登山開始
12:00 二子岩 昼食
12:45 御池コース分岐
12:50 皇子原コース分岐
13:30 高千穂峰山頂
15:00 高千穂河原

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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