霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

*

膳棚 氷柱のない膳棚なんて(H21,2)

      2015/01/11

膳棚「ここが氷柱で有名な膳棚です」
指差すほうを見ると赤茶けた岩肌。
今日は氷柱のない氷柱を愛でる山行。
まぁ、この頃の暖かさで致し方ない。
しかし、それでも10人を越える参加者、この場所の人気の凄さですねぇ。

決行を前にしてリーダーが悩んでいたそうです。
いつもだったら壁面を氷柱が多い尽くしている時期、だからこその計画だったのですが暖かくて氷柱が望めない。
しかし、ルートの確認だけでもしたいとうメンバーが多くて、計画道理に膳棚を目指すことになりました。

大幡池の登山口、そこから温泉跡の方へ進んでいきます。
この温泉跡へはいったことがあります。
最後は大幡池の直下くらいでたと思いますが、特に温泉跡らしき建物もなく拍子抜けして帰ってきたような気がします。

しばらく進むと用水路にあたりました。
大幡池に登るときも見かける用水路です。
その用水路沿いにすすむと沢にあたります。
その沢を遡っていくと膳棚に当たるというわけです。

「滑りだいだぁ」
誰かが滑らかな滝をみて声を上げました。
削り取られて滑り台のように窪んだところを水が緩やかに流れています。
そうですねぇ、確かにウォータースライダーのような趣です。
その横の斜面を遡っていくのですが、そこがまた滑りそうな感じです。
今日は雪がないので大丈夫ですが、膳棚に氷柱があるころは滑って沢に落ちそうな気がします。
アイゼンは必須ですね。

「ここから巻きます、藪コギです」
先導の写真家が指差します。
その写真家を追うように連なって藪に入っていきます。
巻くといっても、これもちょっと大変な傾斜です。
巻いて出てきたところはちょっとした滝の麓でした。
もう、膳棚が目の前までせまっています。

膳棚は目の前に大きく立ちはだかっていました。
本来だったら白く氷柱に覆われているだろう岩肌が赤く圧し掛かってきます。
皆、氷柱に覆われた姿を想像しながら一休み。
そのまま左におれてガレ場を登って膳棚の上にでます。
暫く進むと大幡の前山に着きました。
矢岳、高千穂峰が遠くに見えます。

前山から少しすすんで、ちょうど膳棚の真上に出たところで食事です。
10人もいる賑やかな食事です。
さて、食事をして元気がでたところで一気に大幡池へと向かいます。
おや、大幡池は水が少ないようです。
しかし、それにしても風が強い、みんな記念写真もそこそこに大幡池を後にして下山を始めます。
何度も行き来した大幡池の登山道、急な山道を一気に下っていきます。

とんだ膳棚となってしまいました。
氷柱のない氷柱を愛でる山行です。
しかし、みんな満足そうな顔をしています。
きっと来年の氷柱に覆われた膳棚が見えているのでしょう。
楽しみがひとつ増えました。

膳棚 登山記録

登山日 平成21年2月11日
登山者 谺、ハンターさん、山岳会メンバー
9:00 大幡池登山口(登山開始)
9:30 沢に入る
9:50 危なそうな沢をトラバース
10:10 高巻をする
11:00 膳棚
11:30 大幡前山(昼食)
12:35 大幡池
13:30 大幡池登山口(下山)

 - 登山日誌 ,

adsense

adsense

最近のコメント

このブログでは記事ごとのコメントは設けておりません。
ご意見、ご感想などは、ゲストブックに書き込んでくださると有り難いです。


  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

  •   関連記事