霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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俳句吟行 敦盛の笛を訪ねて台明寺渓谷へ

   

台明寺渓谷

今月の俳句吟行のテーマは青葉の笛です。

敦盛の笛を訪ねて秋の旅(谺)

青葉の笛というと平敦盛の逸話を想い出します。
舞台は源平合戦、義経の逆落としで有名な一の谷の合戦です。敗れた平家が配送する中、源氏軍の猛者、熊谷直実が沖の船の逃れようとする平氏の武者を呼び返し組み伏せます。首を取ろうとしたところ年端もない美少年で、ちょうど自分の子供と同じ年頃だったため躊躇し逃がそうとします。その武者が敦盛であり、16歳だったといいます。敦盛は逃げることを拒否し、直実の背後にも他の源氏の追手が迫っており、直実は致し方なく敦盛を打ち取ります。敦盛は笛の名手であり、彼の所有していた名笛「小枝(さえだ)」が青葉の笛だったとあります。

この平家物語の印象的な逸話は能や唱歌などにもなっています。あの信長の「人間五十年、下天のうちをくらぶれば・・・」も幸若舞「敦盛」の一節ということです。唱歌「青葉の笛」も年配の方はご存知かもしれません。

青葉の笛

そのような青葉の笛は台明寺の竹で作られた笛です。霧島市国分の城山公園内にある国分郷土館には、青葉の笛が飾られていました。面白いことに笛には葉っぱが付いたままでした。果たして、この葉っぱはどのような意味があるのでしょうか。あまり実用的には見えません。ものの本によれば、巡幸した天皇に青葉が付いたままの台明竹を、笛の材料として献上したところ良い音色だったのが、その謂れとありました。それから笛の材料として宮中に献上されるようになったのだそうです。

日枝神社

今は台明竹、青葉の笛の謂れとなった台明寺はありません。渓谷沿いの山道にひっそりと台明寺跡という看板がありましたが、そこには小さな祠の彫ってある大きな岩があるだけでした。
現在は「日枝神社(ひえじんじゃ)」が近くにあり、その境内に台明竹と言われる竹林があります。入り口は通り過ぎてしまいそうな感じですが、参道を登り始めると大きな木々が現れ、時間の流れを感じます。境内はよく整備されており、地域の方々の深い信心を集めていることが伺えます。

青葉竹

青葉の笛を訪ねての吟行の旅でしたが、これだけでは俳句ができないということで、少しばかり足をのばして台明寺渓谷公園にいきました。霧島市の管理している親水公園です。行ってみると子供連れの家族で賑やかでした。おりしも雨のあとで水が多く、子供たちが水の中にはいり大はしゃぎしていました。夏休みの残りが少ないのを忘れたいのか、線香花火の最後の煌めきにも似たはしゃぎぶりです。

南国はしどろもどろに秋となり(谺)

すでに秋ということで秋の歳時記をくくります。しかし、立秋を越えたとは言え、まだまだ真夏の装いの南国です。それでも時折垣間見る秋の気配を拾いながら句を詠んでいきます。
句会は川魚料理の「一もり」です。障子を開けた句会メンバーの「まるで嵐山のよう」という声を聴きながら、鮎の塩焼きに箸を伸ばしました。酒が欲しいなぁと思いつつ。
私の句は「秋の空」や「秋の旅」などと安易な季語をもってきて、今いちパンチにかける句しか出来ませんでした。まぁ、しかし、これはいつものことです。

 - 俳句

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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