霧島の麓にて

霧島の麓から田舎暮らしの日々をつづります・・・山登り、短歌、そしてパソコンな日々

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肝属山系 甫与志岳・黒尊岳の縦走(H19/6)

      2015/01/10

黒尊岳梅雨の山行企画です。
1週間前からチェックしている天気は芳しくありません。
やっぱり、雨は覚悟の上の参加に。

今日のコースは甫与志岳から黒尊岳の縦走です。
参加人数も多く、国見平からと二股からの二手に分かれてクロス縦走です。
私は二股から甫与志岳を経て黒尊岳のチームの筈でした。
この後とんでもない事が起こる事になるのですが、それは後ほど。

高山の国見トンネルへの分かれ道で集合です。
ここで、複雑な方程式にしたがって車を分乗し、ぞれぞれの登山口にむかいます。
私達のチームは7人、2台の車にのって登山口に向かいます。
登山口はトンネルの横、雨も降らずにまずまずの出だしです。

9時過ぎに出発し、一路、甫与志岳へ向かいます。
このコースは、あまり入山する人が少ないのか、道がはっきりしなかったり、狭かったりします。
しっかりと目印を見て登る必要がありそうです。

しばらく進むと急な登りになりました。
甫与志岳は肝属山系の最高峰、969mの標高は楽をさせてくれません。
ところで、分かれ道まで同乗した方が、「国見平の方が標高が高いので楽だろう」との話をしてくれました。
なるほど、彼らとはどこで出会うのでしょうか。

しばし幾つかのピークを超えて、最後の登りに取り付きます。
雨に濡れた登山道は滑りやすく、足を踏ん張ってのぼります。
やがて下りに。
おや、おや、最後の登りではなかったようです。
そのまま下り基調で登り下りをしていると前から声が聞こえてきました。

「あら、早かったですね。甫与志岳の手前で出会うとは」
「???」
なんだか向こうのチームの様子が変です。
ここで、私達がとっくに甫与志岳を通り過ぎていたのに気がつきました。
どうも、甫与志岳ピークをトラバースしてしまったようです。
もう、時計は1時を回っています。
一度にお腹が鳴り出した7人衆でした。

さて、気を取り直して黒尊岳に向かいます。
その韓国ドラマのタイトルにも似た名前の山へは暫く歩く必要があります。
食事もとって元気の出たメンバーは、尾根伝いに黒尊岳を目指します。
甫与志岳までは藪道でしたが、このあたりは心持、広いような感じがします。
しかし、上り下りの大きいコースです。
下りでは幾度となく滑り、登りではすでに7時間近く歩いている足が悲鳴をあげます。

やっと国見平に着いたときには4時を回っていました。
7時間を越える縦走でした。
時折降る雨と汗で服はじっとり、靴は泥だらけの状態です。
そのまま、温泉へ急行。
ちょっと心残りのところもありましたが、楽しい山行でした。
皆様、お疲れ様でした。

日程 :平成19年6月24日
参加者:15名、8名と7名に分かれてクロス縦走
コース:鹿児島県大隈半島 肝属山系
二股トンネル-甫与志岳-黒尊岳-国見平

9:11 二股トンネル登山口
:  甫与志岳
13:02 国見平出発組と合流
15:20 黒尊岳
16:25 国見平 下山

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  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/30])

    永野さん、返事ありがとうございます。
    お会いできる日を楽しみにしております。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/30])

    おはようございます。パソコンに短歌に史跡巡りに山登りに米作りにバーベキューなどなどにとお忙しい毎日を楽しんでおられるようです。
    今度そちらにお伺いするときは連絡差し上げてみたいと思います。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/28])

    なるほど、興味深いですね。
    史跡めぐりは好きですがテーマがあると面白くなりますよね。

    私の興味は今のところ古代です。
    国分は古代と先端技術がが同居している面白い場所です。
    私は日向市の生まれでれ宮崎市で暫く仕事して今は国分に住んでいます。。ここに来た時に宮崎神話と思っていた海幸彦山幸彦の主人公の御陵が近くにあったのが興味を持ち始めた発端です。

    永野さんおブログを拝見しました。国分方面にも良く来られているのですね。こんど来られるときはご連絡ください。時間があえばお会いしたいものです。

  • ゲストブックへのコメント (永野より[05/28])

     ご返事ありがとうございます。800年前の話、やはり無理ですね。
    俊寛が実際にこれらのルートを通って流されたかどうかは事実ではないのではと思いますが、長門本を書いた作者(複数かも)は本に出てくる地名を知っていたと思われますし、この本が書かれた当時はこのルートが一般的によく知られていたものと思われます。
     俊寛らが出港した港はまずは隼人のAZの近くの港から、鹿児島に立ち寄り最終的には坊津からのようです。このことについては「広報きりしま」(何号かはメモしてなくて不明ですが最近です)の20ページに詳しい記載があります。
     私のブログ「宮崎(都城)からの便り」の中の史跡巡りまたはぶらり旅の欄にもコチョコチョと書いています。参考になれば・・・。

  • ゲストブックへのコメント (yamaboushiより[05/26])

    あの足摺の俊寛ですか。俊寛が我が家のちかくを通っていたとは感慨深いものがあります。
    残念なが止上から財部への古道は判りません。今では国分と財部を結ぶ県道2号線が近いと思います。
    気色の森も近くにあります。

    俊寛が流刑地に向かって出港したという石碑が鹿児島市の天文館にあるそうなので、国分から加治木を通って白銀坂を登ったのでしょうか。
    私も機会があったら薩摩街道などを訪ね歩きたいと思います。

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